ご挨拶境内図

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三月上旬~四月上旬に開花。 桃山時代、「侘助」という人物が朝鮮から持ち帰ったことで、このように名付けられたと言われている。
侘び寂びの世界を感じさせるこの花は、千利休などの茶人たちに愛された花としても有名である。
当寺の「侘助椿」は秀吉によって賞賛されたと伝えられており、日本最古とも言われている。

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中央の水穴を「口」の字に見立て、周りの四文字と共用し「吾唯足知」(ワレタダタルコトヲシル)と読む。
これは、釈迦が説いた、「知足のものは、貧しといえども富めり、不知足のものは、富めりといえども貧し」という 「知足」(ちそく)の心を図案化した仏教の真髄であり、また茶道の精神にも通じる。
また、徳川光圀の寄進とされる。

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方丈の北東に位置する茶室。
江戸初期に建立された後、明治中頃と平成八年に二回移築された。
蔵六とは亀の別名であり、頭・尾・四肢を甲羅に隠すことからこのように言われているが、 仏教的には蔵六は「六根を清浄におさめる」の意となる。
四畳一間で中板が設けられている。
通常非公開。

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昭和五七年(一九八二)、室町時代風に復元されたもの。
庭の中央辺りには細川廟があり、ここには、龍安寺を創建した細川勝元の木像が安置されている。
勝元像は明暦四年(一六五八)、藤原種久の手によって作られたものである。
また、勝元像の左手には、細川家歴代の管領の位牌がある。

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昭和五六年(一九八一)に建立。
寛政九年(一七九七)の焼失以来、妙心寺に伝わる古絵図に基づいて、約二〇〇年ぶりに復元された。
材は樹齢一〇〇〇~二〇〇〇年の台湾桧を使用しており、入母屋造りで、銅版葺き屋根の重層な禅宗建築である。
檀家の法要などに使用し、左側の祭壇には天皇家の位牌、右側には歴代住職の位牌が安置してある。

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重要文化財。
慶長二年(一六〇六)に塔頭の西源院の方丈として織田信長の弟、信包(のぶかね)によって建立されるが、 寛政九年(一七九七)の火災で、龍安寺の方丈が焼失したため、移築されることになる。
故皐月鶴翁(さつきかくおう)が昭和二八年(一九五三)から五年がかりで描いた龍と北朝鮮の金剛山の襖絵がある。

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正しくは方丈庭園といい、国の史跡及び特別名勝に指定されている。
幅二五メートル、奥行一〇メートルの、約七五坪の広さを持ち、庭一面には白砂が敷き詰められている。
一五個の石を東側から五・二・三・二・三と配置した代表的な枯山水の庭園であり、禅の美を極めた空間である。

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寛政九年(一七九七)の火災で焼失後に再建される。
本来は「寺の台所」という意味を持った「庫裡」だが、禅宗寺院では「玄関」としている所が多い。
禅宗寺院建築の特徴を捉えた木組と白壁からなる構成は、簡潔且つ重厚であり寺院全体と見事に調和している。
紅葉時は鮮やかな色彩に映えてさらに美しさを際立たせている。

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重要文化財。
寛政九年(一七九七)の火災で龍安寺の唐門(勅使門)が焼失したため、西源院の唐門が移築された。
昭和五〇年(一九七五)、英国エリザベス女王夫妻が参拝された際には、この門から入り、方丈から石庭をご覧になられた。

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寺院内へ誘うアプローチの脇を飾る「龍安寺垣」。
特徴は透かしの部分に割竹を菱形に張っていることであり、菱形のデザインは柱やカーブにも対応しやすく、長い距離に適した竹垣といえる。
このように、庭園の竹垣には寺院名を冠するものが多く、これらの優美な形状が、独特の美しさを醸し出している。

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平安時代、龍安寺一円が徳大寺家の別荘であった頃、お公卿さんがこの池に龍頭の船を浮かべて歌舞音曲を楽しんでいたことが文献に残っている。
また、昔時は石庭よりも有名で、おしどりの名所であった。
今は、カモやサギが池のほとりで羽根を休める姿が見られ、年間を通して四季それぞれの美しい草花が楽しめる。

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江戸中期に建立。
宝暦五年(一七五五)洪水により破損したため再建されたもの。
苔が見せる浄土の世界や石庭が語る禅の精神へと人々を誘う入り口であり、日々、異なった表情を見せてくれる彼らに、 何時でも会いに来られるよう、帰りを待ちわびる玄関でもある。

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COPYRIGHT © RYOANJI TEMPLE ALL RIGHTS RESERVED | PHOTO BY KATSUHIKO MIZUNO

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